Jindo Basketball 16 -国際協力におけるバスケットボール-

9月7-20日ぐらいの間のたくさんのバスケ関係者から話を聞いた。

今まで知らなかったことをたくさん知れる良い機会だった。


選手にコーチ、保護者などできるだけ所属の違う人たちに話をきけた。


そして今も変わらないバスケットボールが孕むたくさんの問題にも直面することになる。

これは途上国だけの話だけではなく、日本でも一緒で、日本ももちろん通ってきた問題だし、

世界の至る所のバスケットボールの場所で起こっていることでもる。


せっかく貴重な話を聞けたので、記憶が残ってるうちに記録したい。


まず初めにざっくりと分けるなら。


1 . 「勝利のための教育」? or 「教育のための勝利?」


「バスケットボールは勝つためにするのか?」


「それとも教育のためにするのか?」ということである。


つまり、人間開発と勝利をどちらを優先するか、あるいはその比重(割合)をどちらにおくかということ。ピボットフットはどちらにするかという意味合いである。



国際協力の場合におけるバスケットボールは基本的に青少年(大学生まで)への関わりが大きい。主にSDGsで挙げられているような目標を扱うための手段としてバスケットボールがアプライされる場合が多い。あるいは指導者不足(草の根を担う)を補う意味で、バスケットボールを上手くなりたい子どもたちのマンパワーとしてあてがわれることが多いのかなと思う。


私の知る限りで国代表やプロフェッショナルチームへのリクエストは聞いたことがない。

(日本はバスケットボール先進国ではないから)


もし、国代表やプロチームへのリクエストがあったならそれは国際協力というよりかは、

それは完全なるバスケットボールそれ自身のトランスファー(技術移転)だろう。


スポーツ(近代スポーツ)のやっかいなところは、

「勝たなければならない」ということである。


例外をのぞき勝てない名指導者は存在しない。


名指導者は勝つからこそ名指導者と呼ばれ、その名を、そしてその哲学を後世に残していく。


世の中に出ている指導者の本のなかに一体何冊の本が「敗者の指導者」から生まれているのだろうか。


勝つことを最優先にしてはいけない。

しかし、勝ちを放棄すればそれはスポーツですらなくなる。

(お互いが負けにいく八百長ゲームなど結果は明らかである)


そのジレンマが国際協力では大変足枷になる。


負けている指導者に説得力はないし、

勝利だけにとち狂っている指導者にも誰もついてこない。


「勝てて多少の人間性を育ててくれるコーチ」


「負けるかもしれないけど教育を大切にしてくれるコーチ」


親はどちらを選ぶだろうか?


そして選手自身もどちらを選ぼうと思うか?



詰まるところ、勝利とは脳内麻薬(私はオバケと呼んでいる)のようなもので、

頭で分かっていてもそれがスポーツをスポーツたらしめるものなので、

本能に抗うことのできない大変まぶしい力を持っている。

これがプロコーチなら「勝てなければクビ」つまり食べていけなくなるのである。

(試合のない育成プロコーチは後日また口述したい)



まずはこの勝利に対してのマインドセット(どのていどの勝利が大切か)が大切になってくる。



2. その勝利は誰のためのものなのか?



選手のために勝たせてあげたい。


チームのために勝ちたい。


自分のエゴ(富と名声のため)のために勝ちたい。



指導者は勝たないといけない理由を探す。

しかしそれが指導者のための勝利に近づけば近づくほど選手は離れていく。

「選手を勝たせてあげたい」という想いは少しずつオバケに飲み込まれていく。


色々な歪みを生み出してチームのカタストロフィーが始まっていく。


選手はプロではない。指導者ほど勝ちたいと思っている選手はザラにはいない。

正確にいうなら「勝ちたいと想う意思と同じぐらいの行動が伴っている選手」は少ない。


指導者ももしかしたら同じかもしれない。

「選手のために」と思っているだけのDevotionがそこにあるのかということ。

オバケに取り憑かれてもいいと思うぐらい人生を突っ込んでいるのかということ。


チーム(指導者と選手が同じ熱量の自由意思で)としての勝利を目指すことは、バスケットボール以前の話でありチーミングの話でもある。


グローバルノースから指導者がやってきてグローバルサウスの子どもに向かって

「勝ちたいならノースの練習をまずはExecutionしなさい」では破綻が目に見えている。


「なんのために勝たないといけないのか?」この問いに答えを持っている指導者はいったいどれだけいるのだろうか?


インタビューをしたコーチの一人が

「バスケットボールを通じて学ことで大切なことはなんですか?」の問いに、

「どうやって負けたことを咀嚼してそこから這い上がっていくか」というアンサーがあった。なかなかそんな意見をここで聞いたことがなかったので、彼に教わっている選手は幸せだとおもう。





3.楽して勝ちたい

多くの選手が願うことだが、みな勝ちたい。そしてできることなら楽して(効率よく)勝ちたいと思う。闇雲にしんどい練習をしたい選手はいないだろう。


なので楽して(効率含む)勝利へ導いてくれるコーチは彼らにとっての名指導者になりやすいだろう。


つまり「ハリーポッター」のような「勝利への魔法使い」の指導者が求められる。


しかし大人はみんな知っている。魔法など存在しないことに。

魔法が使えないことがスポーツのいいところであり、少年ジャンプのような、

努力と友情と勇気でしか勝利は掴めないということを知っている。

(勝利の魔法を使えるならきっとそれは八百長と同義だろう)




4.バスケが上手くなりたいのであって不要なことはしたくない


例えばバスケットボールのために学業を頑張りましょう。

バスケットボールのために学校の周りのゴミ拾いをして社会に貢献しましょう。


バスケットボールに一見直接繋がって見えないようなことは選手は求めてはいない。

彼らはコートの上で、ボールを持って、シュートを撃って上手くなりたいのである。


「バスケットボールをしたくてきたのに、なぜバスケットボールに関係ないことに時間を費やさなければならないのか?」


指導者の説明の腕の見せ所ではあるが、途上国では本当にこれを現地語で、現地の文化にそぐうように説明するのが難しい。そこは日本ではないのだから。


現地の欲しいものと、こちらが差し出したいものが乖離するのである。


勝ちたい選手に負ける大切さを説いてもなかなか伝わらないし、


シュートを撃ちたい子どもにランメニューやフットワークを教え続けても、次の日にはバスケットボールを嫌いになるのが落ちだろう。


勝利を欲してる選手に教育を与えても、


教育を望んでいる選手(保護者)に過剰なまでの勝利を与えても、

誰も幸せにならないのである。



5. スポーツは生きていく上で必要ない


途上国の子どもたちはよく親の仕事を手伝う。

出ないと家族ともどもみな滅びてしまうからだ。

スポーツをしている間に家計は減っていく。

なんなら勉強している間にも食べられるものが減っていく。


スポーツ(時には勉強)は途上国の人たちの生きていく上でどれほど大切なものなのか?

そんなものしている暇があるのなら少しでも日銭を稼ぐことが優先ではないのか?


勝たないと食べていけないものと、

勝たなくても食べていけるようになる目の前の仕事と一体どちらが大切なのか?


「スポーツは習い事です」なんて言えるのはグローバルノースの一部だけである。

お金を払って、お金を稼ぐ時間を削る行為は本当に意味のある行為なのか?


お金を払ってまでお腹を自ら減らす行為は本当にそのさきの未来に繋がるのか?

これが第三世界に今だに突きつけられる現実である。


「お金がなければスポーツなんてできませんよね?」との問いにあなたはなんと答えることができるだろうか?




6. 残したいものが違う


現地に来た人間はだいたいこのように願う。

「私はレガシーを残したい。目先の勝利ではなく、この先に持続可能性のある大切な何か」である。


勝利ほど持続可能性のないものはないだろう。


しかし現地は違う。欲しいものはまず目先の勝利であり、その日の食い扶持である。

勝つからその日を一日食べていけるのであり、勝たなければ明日のご飯はない(負け続ければみなバスケットボールから離れていく)のである。



「2年間の間で何回勝ちたい」と活動計画する人はほぼいないだろう。

勝たないといけないスポーツなのに、勝つことを目標に掲げないことが、国際協力におけるスポーツのジレンマである。


選手たちがいちばん欲しいものを後回しにしてしまう。

そうせざるを得ない構造や現実が途上国で散見される。

選手だけではない、組織の関係者や保護者にもこれを理解してもらうことは本当に難しい。


残したいものは魔法のようなバスケットボールの戦術ではない。

ハリーポッターのような魔法の必勝法でもない。


きっと残したいものは


「意思を継いでくれる後継者」であったり、


「後世に残る教科書やマニュアル」だったり、


「現地のためを思って作った頑丈なシステムやマネジメントの環境」だったりするが、


そういった残したいものはたいてい

「10年後にもしかしたら宝箱になるかもしれないゴミ箱」みたいなものである。


ゴミ箱もらって嬉しい現地の人はきっと多くはないだろう。


(5秒以内に宝物と認識できるiphoneやバスケットボールならありがたく受け取ってもらえるだろう)









最近は便利な世の中で、AIが私にとっての国際協力を定義してくれた。


ココカラ

国際協力とは、豊かな側が不足している側に何かを与える行為ではない。


異なる知識、価値、時間、制度、欲望、権力をもつ人々が出会い、何が問題なのかをともに問い直し、互いの差異を消去することなく交渉し、ときに拒絶し、ときに翻訳し、ときに何もしないことを選びながら、それぞれがより多くの選択可能性を持てる関係をつくる営みである。


したがって国際協力の成功とは、援助者が何を残したかではなく、援助者が去った後に、現地の人々がそれを続けることも、変えることも、捨てることも、自ら選択できる状態にあることである。

ココマデ




少しAIはまだ私のことをわかっていないかもしれない。



あなたがバスケットボールを捨てられた時、


あなたからバスケットボールが奪われた時、


あなたがバスケットボールを終えた時、


あなたの人生がバスケットボールの向こう側に進んだ時に、


私を思い出すことなく、


あなたの人生をあなたの足で、


秒速5cmでいいからゆっくり自分の力で歩いて行ってくれることが、


私にとっての国際協力におけるバスケットボールの成功である。


バスケットボールは使い捨てで構わない。


使い捨てカイロみたいに、

あなたのかじかんだ手が数秒だけ温まればそれで良い。



私が願う国際協力は「勝ちたい」ではないと気づいたときに、


勝ちたいと願う現地のニーズを叶えられない時点でここに来ることを間違えたのかもしれない。


現地が願うものを差し出せないのならここにいる意味はあるのか?


同時に私が願うものはここでほんとうにもらうことができるのだろうか?



「バスケットボールを通じてあなたの世界を見てみたい」


世界と接続するための手段であり、目的ではない。


しかしその手段がなければ目的地には辿り着けない。


バスケットボールである必要はないが、


私にはそれ以外の接続デバイスを持ち合わせていない。


唯一私が国際協力できるデバイスです。


もっと融通のきくiphoneみたいなデバイスが欲しいです。


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