Indo Monolog 26 -EID AL FITR-

昨日レバランがあった。


ムスリムの断食明けを祝うイベントである。

日本でいうようなお正月のイメージだろうか。


私は今年はこの1大行事に参加する機会はないかなと家で籠って作業していたら、

みるに見かねたのか同僚が誘ってくれた。


同僚の部下が迎えに来てくれて同僚の家にお邪魔させてもらえることになった。

彼の家には見慣れた顔がたくさんあった。いつも大会やイベントを支えてくれるいつものメンバーだった。


私は少し業務ミーティングをオンラインでしていて参加に遅れたのだけれど、

日本のお正月の夜のような、ミニゲームを行なってみんなでワイワイ盛り上がっていた。

景品としてお年玉ももらうことができた。Imlek (旧正月、中華系の人たちのお正月)ではお年玉(幸運を呼ぶとされるポチ袋)をもらえなかったので、インドネシアで始めてもらえたポチ袋だった。


ゲームの後は同僚が奥さんと一緒に晩御飯を用意してくれていた。

スラバヤ出身の奥さんが作ってくれた郷土料理の煮卵は大変おいしかった。


今回、断食の期間にムスリムのカルチャーを色々学ぶことができた。


断食中にバスケットボールを教えるのは大変危険だということ。


断食期間はイスラムの暦によって毎年変わるが、今年の断食期間はインドネシアでの屈指の暑い期間だったということ(インドネシアの四季は、夏、真夏、雨夏、半分死にかけるぐらいの夏の4つと以前教わった。順番はいまだによくわかってない)


1日だけ断食を試したみたけど、日の入りまで水も飲まないことを1ヶ月続けるのはなかなか大変だということ。


コーチ仲間のNickyは断食の1ヶ月間で7kgほど痩せていた(断食というよりはダイエット)ということ。


日本人にとって宗教行事というものに大変馴染みがないことが多いように思う。

私たちのほとんどは無宗教で冠婚葬祭と行事の時だけ「一時的な仏教徒」になるのがマジョリティのように思う。


彼らの信仰は大半の日本人のような都合の良いようなものではなく、

(もちろん形式だけの人たちもインドネシアにはたくさんいるが。。。)

文化や社会に深く根付いているように感じた。


私は日本には文化としての宗教的な行事はあったとしても、

インドネシアのような国や社会として全体でそれらをフォローするようなものはあっただろうかと日本の生活を振り返るようなことが多かった。

(もしかしたら、しっかりと宗教を日本で持っている人にとってはそれらはあるのかもしれないが・・・)



彼らにとってごくごく生活に当たり前にある宗教は、

私にとっては完全に新しい世界のものだったのでこれが「宗教がある国」かととても多くのことを学ぶことができた。


今回参加したこの集まりは、


1 集合体が血縁の家族たちではない

2 私を除いた全員がムスリムである(中華系の人はいなかった)

3 バスケ仲間(近所に住んでいるわけではない)とその近親者の人たちである



日本のお正月のような親族で集まるようなものではない。


インドネシア人とかそういう括りではなく、ムスリムの人たちという集まりである。


ムスリムの人たちでありながらバスケ仲間であり、いつも一緒に仕事をしている仲間でもある。




日本では職場の仲間で忘年会をすることはあっても、特定の宗教で集まるようなことはないだろう。(日本では特定の宗教がその集団のマジョリティを占めることは、宗教法人のような宗教団体を除けば基本的に存在しないであろうから)


つまり、私の理解では、インドネシアは小さな宗教団体や組織としてイベントを行ったのではなくて、大きな国どころかイスラムという世界規模の大きな宗教枠組みのもとで、

「今年もレバランの時期やな。みんなで集まるか」と自分の属しているコミュニティの中で、

同じ宗教を信仰している仲間を呼んで宴を開いたようなイメージである。



日本はクリスマスやバレンタイン、ハロウィンのようなキリスト教に関するイベントは幅広く認知され、お寺やお坊さんにお世話になることもよくあるので仏教に関するイベントも認知としてはよくある。


私はイギリスに留学していたこともあったので、そこでイースターを知ったし、

アメリカのシットコムではThanksgivingを行事としてあることを知った。


モンゴルにいた時は旧正月のイベントを経験したので、

インドネシアの旧正月も形は違えど、なるほど派生系として同じ起源を辿っているのかと今回理解することができた。


今回のムスリムのレバランは、日本の年末年始のお正月にイメージが近い。


なんとなくの私の解釈では


「1/1の正月を盛大に祝う前にみんなで団結して1ヶ月断食頑張ろうか」と言ったようなイメージである。(もちろんコーランの教典的な意味合いとは違うだろうが・・・)


私はインドネシアに来る前には断食は非科学的なものだと思っていたし、

バスケットボールとの相性は今もあまりよくないと考えている。


しかしながら、断食がもたらす「コミュティ ソリダリティ」は言葉で説明するのが簡単ではないが、彼らの中でとても強い絆をボンディングするものである。


私はバスケットボール(スポーツにも言えるかもしれない)はソリダリティをやコミュニティを作るものとして有効だと考えていた。家族とは別の集団で「居場所」を作る。子どもたちが公園で遊ばない代わりにコートがある。親同士がそこで関わり合って「孤独な子育て」にならなようにコミュニティで子どもを育てていくような感覚だった。


バスケットボールというコミュティの中でソリダリティを育むものだったが、

インドネシアでは「ムスリム」というもう一つのコミュニティがバスケットボールと共存する。


もちろんバスケットボールとムスリム文化の位置付けは、バスケットボールの方が下位にあるため、ムスリム文化の中にバスケットボールが包括されているイメージではあるが、


ムスリムカルチャーがあるがゆえに、バスケットボールの中に、またムスリムというコミュニティでソリダリティを見出せるという事象が私には大変興味深かった。


ムスリムは断食などの社会的あるいは生活的な制約が多い。

それゆえに科学的あるいは現代資本主義的な社会や生活に多かれ少なかれ影響を与える。


しかしながら、制約を乗り越えた時のソリダリティは本当に興味深いものがあった。



バスケットボールで

「しんどい練習で苦楽を分かち合った仲間とは、大人になってからも・・・・」

というような感覚と少し似ているのではないかなと、彼らの宴のはしゃぎぶりを見て感じることができた。


少し断食に関しての私見ではあるが、


私が現役の時はなかったが

「練習の時に水を飲むな」という昭和な練習方法は昭和にはあったかと思う。


要は科学(当時は最新科学だったかもしれないが)ではなく「しんどいことをして身体を鍛えろ」というものである。


断食は特にファスティングに似ているので

「断食することは身体に良い」という認識でムスリムの人は行っている。

「しんどいこと」ではなくて「身体に良いこと」であり信仰を強くするものである。



水を飲まないで練習することと高地に行って練習することは生理機序は違えど、

身体的に負荷を与えて本番では楽にパフォーマンス(ハイパフォーマンスを出せる)できるようにするという点においてはそこまで変わらないものかもしれない。


「栄養を与えないトマトの方が甘く育つこともある」というエコロジカルなアプローチにも通ずるものである。



ことバスケットボールにおいては負荷のかけ具合によっては「断食」は有効活用できるのではないかと感じた次第である。


私の国際協力のミッションステートメントは

「バスケットボールのカタチを現地の色に染めていく」ことである。


現地の生活や社会と共存できるようにバスケットボールを変容させていくことが

(Globalisationの中でのLocalise)


私の中でとても価値の高いことなので、

今回は宗教イベントがたくさんある時期を体験したことで、

宗教の奥深さをとても感じた。



きっとこれからのバスケットボール指導においてこの経験は役に立っていくことだろう。



異文化の醍醐味は


「価値観を揺さぶってくれること」である。




途上国の人は日本人より遥かに貧しくても、日本人より遥かに幸せそうにしていることも多々ある。(逆もある)


途上国がなぜ日本をリスペクトしてくれている割には日本の良いところを受け入れられないのか?といった背景を文化や生活体験を通して少しずつ理解していくことができる。


日本人のやり方が全く通用しないということは言い換えると

「あなたはまだ現地のやり方を全く受け入れられていない」ということでもある。



自分の中の大切なものが音を立てて崩れ去って行ったあとに、

それを自分の手で2年間かけて崩れないように違う形で積み上げていくその積み木の作業が、

きっとあなたが2年間の中でいちばんあなたが今後も大切にしていく現地からの「お土産」なんだと思う。(もしかしたらこれはレジリエンスというかもしれない)



世界を理解することは大変な作業かもしれないが、

文化を理解することは無知からの脱却である。


少なくとも日本に帰ったら困っているムスリムの人たちへの配慮はできるようになるだろう。(もちろん、日本の文化を考慮せずに、自分たちのエゴだけを押し付けるような人たちは肯定できないが)


お互いの無知を減らしていくことができれば、

少しずつ少しずつ「国際協力」と呼べるような活動になっていくことだろう。


なので、

疑問をひたすら逐一聞くことのできる積極性


その回答を正確に理解できるリスニング力


そして日本の価値観を説明できるだけの説明力(スピーキング含む)


結局はコミュニケーション能力に尽きるのだけども。



活動量に語学は比例する。


私が語学が上がらないのは活動量(現地との関わり)が足りていない。

(そしてセオリーの勉強も足りていないのだが)


歳を言い訳にしたいが、いかんせんこころあたりありすぎて言い訳ができない。


語学力を見ればその人がどれだけ活動を頑張ってきたかすぐにわかる一つの指標でもあるので、もう少し語学に充てる時間を作れたらと思う。


あっという間にそろそろ半年。


旅行に行く暇もないし、旅行なんか行ってたたら語学も上がらない。


残り1年半。


そろそろエンジンのギアをあげて行きたいと思います。

4月は忙しくなりそうです。




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