Jindo Basketball 7 -バスケットボールにおける育成-

私はインドネシアでは主に4-18歳ぐらいまでの選手にバスケットボールを教えている。

一般的に育成年代と呼ばれている世代であるが、少し今回は育成について考えてみたい。


そもそも「育成」という言葉は定義が難しく、人によってその定義は異なるのであくまでも下記は私が思う育成であり、異論は認めるし、強要することもないので参考までにしていただけたらと思う。


まず最初に育成世代は勝利至上主義の問題がある。

これは「勝つことが一番価値のあるもの」と考えることである。


負け続けの名指導者はいない。(勝たないと基本的に評価されない)

陽の目を浴びるのは間違いなく勝ち続けている指導者だからである。


スポーツは勝敗を競う競技であるので、

勝つことに重きが置かれるのは当然のことでそこに異論はない。


しかしながら、勝つためには何をしてもいいのか?

勝つことを最優先に他を犠牲にしていいのかというとそんなこともないのがスポーツでもある。


日本では勝ちを優先しないためユースカテゴリーでのゾーンディフェンスを禁止した。

勝ちを優先しないようにミニバスでの全員出場をルールに設けた。


勝つためだけならフルコートゾーンプレスの練習をずっとしておけばいいわけだし、

勝つためだけなら特定の選手を交代させることなくずっと使っておけばいいのである。


しかしながら勝つことを最優先しない指導者はたくさんいる。

それは彼らが「教育者」だからである。


バスケットボールの技術よりも人間開発を大切にするからである。


ざっくりいうと


コートの上での力


コートの外での力


どちらが大切かということである。


ケースバイケースなのでその是非について議論は今回はしない。


例えばバスケットボールの試合中にボールを持っている時間と持っていない時間はどちらの方が長いか?


例えば人生でコートの上にいる時間とコートの外にいる時間どちらが長いか。


教育者は後者に重きを置いて、

指導者は前者に重きを置く。


バランスやその比重はコーチのフィロソフィーによるので人によってそのグラデーションはさまざまである。


「勝つための最善の手段」と「人間開発のための最善の手段」はイコールにならないのが常であり、強いていうなら「両方のバランスを最善で取れたコーチ」が名指導者と呼ばれるのだろう。


1回戦で負け続けた指導者が世間に評価されることはない。

相手を怪我させ続けてずっと優勝している指導者が評価されることもない。


両方を天秤にかけて釣り合っている指導者がいちばん評価されるのだろう。


なので個人的に


「勝たないといけないのは当然、その上で負けた時に選手たちに何を残せるのか?」

がコーチに問われるところだと思う。


「うちは負けてもいいんです」という指導者は教育者である。

正確には「教育を優先した結果として負けたとしても結果は受け入れる」というスタンスである。「教育のために」を言い訳に勝ちにいかないことも多々ある。


「勝負事なので勝たないといけない」という指導者は勝負師である。

負けたときはクビにされても文句は言えないのである。勝敗の結果にプライオリティがあるのだから。勝つためにはグレーゾーンも平気で綱渡りする。


結局のところコーチの「スタンス」の話である。

どちらの方が望ましいというかむしろ好みの問題だろう。


保護者のニーズも人によってさまざまである。


「とにかくプロ選手になれるように指導してほしい」


「楽しみながら人として立派になってくれたらそれでいい」


勝つことが世間的に評価されやすい以上、

ビジネスを始めようとするなら負けているよりは勝っているチームの方が評価されることは間違いないだろう。



指導者の種類もたくさんいる。


プロコーチを名乗る人はビジネスなので勝つことやバスケットボールが上手くなることに注力する。儲かる(≒勝つ or 上手くなる)ことが優先されるので、人間開発は二の次である。


学校の部活の先生は教育者であり、(公立か私立かでも変わるが)学校のプロモーションビジネスでもあるので、教育とビジネスの両天秤といったとこだろうか。教育寄りになることが多いと思われるがどちらがおろそかになってもいけない。


ミニバスの監督の多くはプロではなく、本職が別にありきのボランティアである。

勝っても負けてもライスワークには上の2人ほど響かないので自由度が高い。

なのでバランスはこの領域がいちばんグラデーションがあるといって良いだろう。


育成のコーチはビジネスでやっているのか教育者としてやっているかボランティアとしてやっているかでスタンスは様々だろう。またそのコーチのバックグラウンドに指導のスタイルは大きく影響される。


例えば私は教育学部を卒業して教育がバックグラウンドに大きくあるので、

「負けても別に良い」とは決して言いたくないが、

「勝つためにその他のものを全て犠牲にしても厭わない」と言うふうにもならない。


スタンスとしては大変中途半端な指導なので、

結果も満足に出せないし、人がちゃんと育つかというとそれもなかなか怪しい。


ただそれでも思うことは

「バスケットボールと無縁になった人生になっても、バスケットボールをやったことが無駄じゃやなかったと思える」ような人材になってほしい。なのでコートの外のことを大切にしてほしいスタンスである。


長くなったが結論としては、


「勝利は必須条件ではあるが、最優先ではない」


「最善を尽くした上での負けは厭わないが、自分たち自身に負けた場合は負けを後ろ盾にしてはいけない」


「バスケットボールがなくなったとしても、その選手に残る魅力を育めるか」


が私が考えるところの育成である。



次に育成の世代に限られた時間で彼らに何を教えるのか?ということである。


「勝つ楽しさ」

「他人を敬う力」

「1 on 1で相手を圧倒できる力」

「ただただ純粋に競技を楽しむマインドセット」

「他者と共存する社会性」


コーチによってもそれは様々だし、

親のニーズも違うし、選手の特性も人によって違う。


その中でもヘッドコーチはそれを取捨選択して自分のチームのカラーを出さないといけない。


そうなった時に自分はどんな指導をしたいかということを

明確に、具体的に、丁寧に、わかりやすく人に伝えるにはどうすれば良いか。


指導者は自分のミッションステートメントを的確に伝えられないといけない。


私は指導者としてはまだまだ1人前には程遠いが、

もし自分がチームを持つことになったら自分が意識していることが1つ明確にある。



「あの時の自分(自分の選手が選手だった時の)を上手くできる指導者である」


自分が中学生の時の指導者は教育者としては素晴らしかったが技術を教える専門性は十分ではなかった。


高校生の時の指導者は専門性は素晴らしく高かったが、教育者としては破天荒だったので彼を現役の時に感謝することはなかった(卒業してからは感謝することができるようになったが)


自分がなぜ上手くなれなかったのか、自分がなぜ試合に出られなかったのは、

自責するのであれば自分の努力が足りなかったし、自分のフィジカルポテンシャルも足りなかった。


他責するのであれば、外部環境が十分でなかったし、指導者も何かしら不可抗力的に足りていなかった。


つまりは

「あの時の自分が全て望んでいたものを与えられる指導者」が自分の今の理想である。



バスケットボールを教えられる専門性


教育者として教育できる教育力


言い訳できないぐらいの外部環境を整えてあげられる環境づくり


そして「必死に自分を乗り越えようと努力しているそばで寄り添ってあげられる力」



自分もそうだが、なぜコーチはみな偉そうに指導するのか。


それは(できなかった自分が過去にいたはずにもかかわらず、それができるようになってしまったので)あたかもそれをできる基準で選手たちに噛み砕いて丁寧に指導できなくなってしまった指導者が多いように思う。


言い換えるなら「どうすればできるようになるか?」に寄り添えなくなったからである。


「できて当たり前なので早くそこまで来てください」となってしまうと、

選手たちは困惑する。なぜなら彼らはその葛藤の渦中に今もなおいるのだから。


何かしらのスキルや判断、コミュニケーション力や組織としての力を今身につけている過程にいる。


その過程にどれだけ丁寧に寄り添って、

時にはオーバーコーチングして、

時にはアンダーコーチングして、



「過程を評価して選手が安心してチャレンジできるように帆走してあげられる」

環境を作ることができるかどうかだと最近育成年代を教えていて考えるようになった。



私の高校の時の指導者は結果オーライを評価してくれることは決してなかった。


高校生活で褒めてもらったことは3回だけ。

その3回とも結果は全て失敗に終わったが、彼は結果ではなく私が辿った過程を褒めてくれた。


プロセスが最善であれば、結果に一喜一憂することも減るし後悔も少なくなるだろう。

結果至上主義になると結果が出なかった時簡単に選手もチームも壊れてしまう。


なので選手には過程を一つ一つ丁寧に大切にしてほしいと思うし、

結果オーライで過程をおろそかにするような選手にはなってほしくないとも思う。


自分が選手だった時はたくさん怒られた。

今思い返せば怒られて当然である。

思い当たる節が山のようにある。


あの時の怒られた自分を、

今の自分ならどのように指導することができるのか?


あの時の恩師と同じような指導をしていれば、

結局大して大成しない選手として終わるのが関の山だろう。



そうではなくてあの時の不甲斐ない自分を、

今の自分よりもどうすれば上手くしてあげられることができるか?


そう考えることができれば自ずとやるべきことは決まっていく。


あの時の自分が足りなかったアビティリティを、

今の選手たちに付与してあげれば良いのである。


指導者の仕事は、

ハードスキルもソフトスキルも、

昔の現役だった自分よりも上手くすることである。


できれば選手の特性を考慮しつつも、

再現性を維持しながら「彼らの目指す自分」のガイドラインになって帆走する。


そのためにはとてもつもない幅の専門性や、マネジメント力が必要になってくる。

勉強あるのみである。



まずは子ども嫌いを少しずつ改善していかなければならない。

(のでやはり大切なのは今は教育学だと思っている。特に就学前と初等教育)



大学の時の先生に教わった言葉で今も覚えている言葉がある。


コーチングとは選手に「潜り込む」という作業である。


口では簡単に言えるが、簡単に選手の深層心理にはダイブできない。


それでも深海に酸素ボンベ背負ってゆっくりとゆっくりと潜り込んでいく様は、

本当にコーチングそのものだと思う。


ゆっくりと、

何回も何回も、

しっかりと溺れないように呼吸しながら、

真っ暗な中必死に手元のライトを灯して、

その辺の深海魚に噛まれないように、


その選手が欲しているものを探るのである。


理想のコーチングは


「選手が行きたい場所に自分の力で行けるように育てる」ことであって、


行きたい場所に馬車でチートして連れて行ってあげるものではない。


行きたい場所が見つからない選手のガイドポストになってあげるのもコーチの腕の見せどころではあるが、育成年代ではなかなかそれ難しい。


4歳児に「あなたの行きたい場所はどこですか?」なんて聞いても答えられるわけがないので。



コーチは


「彼らをどこに連れていきたいのか?」

を明確に答えられないといけない。



4月からコーチ養成のためのコーチングクリニックを同僚と行う予定である。

ワークショップできるように準備しよう。


上記の問いに彼らはなんと答えてくれるだろうか?







「日本へ連れて行ってくれよ」


と言われないように、必死に準備します。


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