Mongol Monolog 2 -モンゴルのバレーの話-


つい先日モンゴルでバレーボールのコーチングクリニックが行われた。

(170人規模で、テレビも入ってとんでもなく大掛かりにやった)

講師は日本のバレーボール界で知らない人はいないだろう。

JOCVファミリーのさんちゃんである。


訓練所でもなぜか講師をしている彼は本当にフットワークがすさまじい。





モンゴルのバレーボールのここ数年の発展は素晴らしいものがある。

それを牽引しているのは私の元同僚のモンゴル人である。

今回のコーチングクリニックはそのモンゴル人の彼(モンゴルバレー協会が)をさんちゃんを招聘したんのである。


同じモンゴル教育大学で同じ研究室でいつも一緒に彼と過ごしていたが、

私はバスケットボールの教員、彼はバレーボールの教員、接点は研究室で過ごすぐらいで特に何か一緒に授業をすることがなかった。


1度私のバスケットボールの授業が授業崩壊していた時(私のバスケットボールCPはいつものようにいない)に彼は私の授業で学生全員にきつく指導してくれた。新卒のモンゴル語も喋れない教員が授業崩壊の原因を作ったとはいえ、彼は学生たちに真剣に指導してくれた。


おそらくバスケットボールのことで彼と関わったのはその一回しかない。


しかしプライベートでは一緒にご飯を食べたり、日本とモンゴルのスポーツ界の未来を議論したり、

いちばん彼は私から学ぼうとする意思が強かった。私が帰国する前には「あつき、そのipad売ってくれ」と当時私がICTを使って最先端でバスケットボールを教えていたのですでにその有用性に気づいていたのだろう。(当時はモンゴルどころか日本でもipad使った指導など誰もしていなかった時代だ)



「彼が私のバスケットボールのCPだったらよかったのに・・・」と今だに思うことがある。

私のバスケットボールCPはそこまで学びに対して貪欲でなかったからだ。



彼はその後バレーボールを極めるために博士課程に進学した。

「バレーボールと教育」について論文を書いた。


なので私が帰国した後にも私はちょくちょくやりとりして、

何か有益な情報があれば都度シェアしていた。



初めて私がさんちゃんのコーチングの論文を彼にシェアした時。

「感銘を受けた。彼に会いたいので紹介してくれ」と言われた。


モンゴル人のやる気は水よりも熱しやすく冷めやすい。

冗談半分に聞いていたら、彼は本当に日本にやってきたのだ。


昔から国際大会の参加にとても意欲的だったので、いろんなところにチームを連れて、

子どもたちに国際経験を積ませていた。


日本にも国際学会やクリニックでたまにきていた。

なのでなんとかさんちゃんと彼を私は繋ぎたかったのである。



「あつき、今度大阪に行くからおまえの家に泊めてくれ」

インドネシアに来る直前の時、こっちは準備で忙しかったが私には泊めない以外の選択肢はない。

あれだけモンゴルで世話になった元同僚なのだから。


彼が大阪にいた期間、ありとあらゆる限りのバレー関係者と繋ぎ合わせた。


モンゴルバレーOV

バレー協会関係者

大学のバレー部

実業団

そしてさんちゃんとのエンカウント


彼は日本から多くものを学んでいった。

間違いなく日本でのバレー現場でのあの学びが彼のモンゴルでの今の指導現場に繋がっている。



私はバスケットボール従事者である。

正直、モンゴルのバレーボールの発展に興味はない。


本当であれば、このような偶然的な出会いはバスケットボールに欲しかった。

私ならできたはずだが残念ながら縁がなかった。

モンゴルバスケットボール協会も日本バスケットボール協会とのコラボレーションも単発で終わってしまった。特にモンゴルのバスケットボール協会は当時ガバナンスが大変でそれどころではなかったし、今のモンゴル協会は私の元チームメイトが頑張っているが、プロリーグ(ビジネス)に特化しているのが現状で普及や振興はまだまだ手が回っていない。



今回、本当に嬉しかったことはモンゴルの彼にはまだ「JOCVの血」が脈々と受け継がれているのである。それはもちろん私の血ではない。歴代のモンゴルバレー隊員の血である。


彼らが長年彼の人生に作用したおかげで、バスケ隊員の私にもよくしてくれて、

最終的にはバレーOVの大長老とも言えるさんちゃんを動かして、

コーチングクリニックを成功させたのである。


現役の隊員ならわかるだろう。

例えば自分が日本の講師を日本から現地に呼んで、

テレビを入れて関係者を170人集めてワークショップや国際会議やクリニックを全てアレンジメントすることの大変さを。


それをモンゴルは現役のJOCVなしでやってのけたのである。

現地の力だけで成功させたのである。



私がモンゴル隊員であれば間違いなく協力したかったが、私は今インドネシアにいるのでその願いは叶わない。


それでも、私がさんちゃんの論文を彼に送って、彼ら大阪で引き合わせられたことがことの始まりであるのも間違いない。バスケットボールは関係ないが、ただただ私が彼らの触媒になれただけである。



JOCVは1人では何もできないことが多いけど、2人いればなんでもできる。

特に1人が日本にいて、1人が現地にいれば本当になんだってできるのである。


もしも私がバレー隊員であったらこのコーチングクリニックはもっと大きなものにしたかもしれない。(隣の芝は本当に青い)


本当にJOCVなしでこのクリニックをモンゴル側が、

自分たちの意思で、

自分たちでお膳立てして、

自分たちでマネタイズして、

自分たちでオーガナイズして、

自分たちでオペレーションして、

自分たちでロジしたこと。


「そんなの普通じゃない?」


と言われても私は本当に嬉しい。


私がモンゴルにいた時はどれだけ頑張ってもできなかったことなのだから。



15年経てば途上国は変わる。


あなたが今現場で必死に泣きながらもがいている活動は2年間の間ではそのほとんどが報われはしない。


それでも15年後ぐらいにこうしてびっくりするようなことがごくごくたまに起こる。


「あなたがあそこでもがいたからいまこうして形になったんだよ」と当時の自分のアクションを、

15年のタイムラグで労ってもらえることがある。


15年の時差で報われることがある。


私はモンゴルのバレーのために何かできたことはないもない。

それでもこうして私が発生させたケミストリーがこうして目に見える形で化学反応を起こした時、

私は本当に救われる。インドネシアなんかどうでも良くなるぐらい。



スポーツの種目は違えど彼とお酒を飲みながら話したことがある。

「子どもの未来を大切にできるスポーツをしよう」と。


彼はモンゴルでいち早く「スポーツを通じた国際開発」の大切さに気づいた人物である。

私の知り合いのモンゴルのバスケットボール関係者で、日本のバスケットボール関係者でも、

そこまでアクションを伴って活動している仲間は少ない。


それでもモンゴルのバレーボールの世界はもーすでに彼のおかげで、

ほんの少しではあるが成し得たのである。


本当にバスケットボール界は何をしているのだろうと思うぐらいうらやましいことである。



なので、インドネシアでは私がやる。と決めた。

あの時の私は何もできなかったが、今は違う。


コーチングクリニックなどわけないはずである。


さんちゃんやモンゴルに負けないような企画をインドネシアでしたいと思う。


あの時モンゴルでできなったことは悔やむ必要はなく、

全部インドネシアにPay It Forwardすれば良いだけの話なのだから。


間違いなく私のインドネシアの血はモンゴルの血できているのだから。


2年のための活動ではない。


20年後のためにJOCVファミリーはきっといる。


訓練所のみなさんも、

現役のみなさんも、

OVのみなさんも、


いつかのその日を待って、毎日を頑張りましょう。


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