Indo Monolog ⑩-災害記録-
11/27
洪水が起きた。
朝からすごい雨が降っているなと思いつつ午前中を過ごしていたら、 尋常ではない雨量になった。 停電して、雨も降っているしいつものことかぐらいに思っていたら復旧することはなかった。
近所の人が体育館に避難してきた。(私はバスケットボーラーなので体育館に住んでいる) 外に出てみると道路はすでに水で覆われていて 「あーこれはもうダメなやつだ」と認識した。
メダンは洪水がよく起こると聞いていて、 住民も早めに避難してきたので大事を凌げば大丈夫かぐらいに思っていた。 雨量はおさまることを知らず気が付けばその雨は膝下まで溜まっていた。
近隣の家は全て1階の平屋で部屋がすでに全て膝下まで使っていた。 急いで彼らは濡れてはいけないものを机の上に全て載せて体育館に避難してきていた。 近隣でない住民は少しでも標高の高い地域に荷物を持てるだけ持って避難していた。
その時はただのいつもの洪水ぐらいに思っていたがそれは未曾有の災害だとその時はまだ気づくことができなかった。 (日本ではタイ南部が「300年に1度」の災害と報じられていたが、つまりタイ南部の下は私が住むインドネシア北部でもある。インドネシア北端の街は二階建ての建物の一階は全て水で覆われた) いつもすぐに復旧するはずの停電も雨の量を見てすぐに復旧しないことを悟った。 もー歩いて避難しようにも体育館の前の道路は膝上までのプールと化した。
これはエマージェンシーである。 私は被災したこともなければ災害救助の経験もない。 でも、この有事で自分の頭の中でやるべきことは即座に決まった。
「体育館は彼らの命を繋ぐことができる場所になる」
一緒に住んでいる体育館の主①と協力して、なんの言語も交わさずに各々ができることに全力を傾けた。 彼らは身支度を整えてきて体育館に避難してきたのでみなずぶ濡れになっていたので自分の衣服を提供した。 雨が降っていてみな寒いと言っていた。
幸い停電はしたが、体育館の調理器具はガスだったのですぐさまお湯を沸かして私が持っていた全てのインスタントの飲み物を提供した。 ここは幸い体育館。コートは無事である。子どもが暇しないようにバスケットボールを転がしておいたら、子どもたちは楽しそうにずっとバスケットボールをしていた。
電気は来ないが、スマホの電波が唯一の大切なインフラである。 私はモバイルバッテリーは持っていなかったが、Macのラップトップは幸い満タンだったので、 モバイルバッテリー代わりに充電の切れそうな人に提供した。 あるおばあちゃんは体調が良くないという。私が持っていた漢方薬を提供した。 私は水をいつもボトル(インドネシアでは大きいボルで何十リットルで買うのが普通)で飲んでいたので、それを避難してきた人に提供した。
食料が足りない。体育館に備蓄してあった販売用のスナックを自腹で購入して子どもたちに配った。 それでもどうやって夜を彼らに過ごさせようかと思い、近くの食料売り場まで行くことを決めた。 1kmもないが、膝上までの泥水である。道端に置いているバイクのほとんどはすでに泥水に侵されている。 泥水にずっと使っている状態では感染症になるリスクも免れないだろう。しかしそんなこと言っている暇はない。 これ以上雨量がますともー歩くことすらできなくなる。 そんな中ズボンが全て濡れたが、最寄りの店がこんな状況でも営業してくれていた。できるだけ多くの食べ物を買って帰っていた。
ちょうどそのタイミングで、CPは遠くに住んでいて体育館には到底来ることはできなかったが、非常食のインスタント麺(国民食 indo mi)を遠隔から届けてくれた。 ガスで調理はできたのでみんなで大鍋でインスタント麺を調理を始めた。少しでもと思い私が常備していた玉子も全て使うように指示して、 少しでも栄養価を上げた。これでとにかく今日の飢えの心配はなくなった。
とっさの有事の判断を迅速に行なってくれたCPには感謝しかない。 おばあちゃんは「蚊が多くて寝れない」と言っていた。 インドネシアの蚊数も多ければ本当にしつこい。そこまで蚊媒介の感染症のリスクは少なくても、体育館は完全インドアではないので蚊は入ってき放題なので、 睡眠の質に大きく影響する。さっき蚊よけの塗り薬も人数分買ってきて正解だった。みんなに配ったら私も私もと一瞬ではけた。
体育館で寝ると言ってもコートでは寝ない。下手したらコートまで浸水するリスクがあるから。 みな段差で観客席を作っている大理石のところに、家からとっさに持ってきた薄い敷布団とも呼べないマットとブランケットと枕を引いて夜を過ごした。 決して寝やすいものではない。ので、私の部屋から自分のベッド用のマットレスを下ろしてきた。子どもと老人で、大理石が硬くて寝れないひとに使ってもらうために。 (結果としてそこで若いおっちゃんが寝ていたが、快適に寝ていたのでこの際よしとしよう)
体育館の段差はとても高い。電気もない状態ではおばあちゃんがトイレに行くのは二次災害につながる。すでに日が暮れて何も見えない。 できるだけ自分が認知できた時はスマホのライトをつけて手を引いた。不思議なもので「気をつけて」というインドネシア語だけは勝手に口から出せるようになっていた。 そもそも近所から避難してきた人は体育館のトイレの場所を知らない。 (トイレは3箇所にある)外のトイレしか知らなかったので、危ない外に行かないようにメガホンで「トイレは中にもあるのでできるだけ中のものを使うように」と指示した。 メガホンも役に立たないと思っていたが、有事の際に持ってきていてよかった。
スマホで情報を拾えば拾うほどSNSでは未曾有の災害になっていた。 (場所によっては被害がすくない場所もあったが、私たちのエリアよりもっと大変になって軍隊が総動員で出動してる場所もあった) SNSで発信することは本当に大切(私は鍵をつけていない)で「安全であること」or「助けを欲していること」をSNSで届けることは災害時のこの時代の主要なインフラだと改めて感じた。 とりあえず今のところ幸い私たちは死にはしない(もちろんこれ以上浸水したらそのリスクもあったが、雨の量は少しずつ減ってきていた)という淡い期待があったので、 少しでも近所の人たちが快適に過ごせる空間だけ提供したいと思って、子どもたちにお菓子を配って大人しくさせたり、暇そうにしていたらバスケットボールを貸して遊ばせていた。
夜の22時ごろ、無事になんとか皆が就寝した。みなが寝静まったのを確認してからありとあらゆるシチューションを経験のない中必死にして、 遠隔にいるCPたちにホウレンソウを行い、現場でするべきことの指示を仰いだ。 まだまだ余談は許されないが、体力勝負なので少しだけ部屋で仮眠をとることにした。 マットレスはもうすでに貸してしまったが、コートで寝るよりは蚊の量が少ないから良いであろう。
11/28
まだ陽が明ける前に起きたが、今日はニワトリもまだ鳴かない。 それぐらい自体は深刻だと実感し、水は少し引いたがまだ彼らは自宅には戻れないだろうと思いながら陽が明けるのを待った。 不思議とある種の安堵感があった。
まずみんなが明るかったこと。悲壮感など泣くただただみなで笑いながらこの状況を助け合っていたからだ。 楽観的なのか、直感的に深刻でないことを予知していたのか、それとも何も考えてなかったのかはわからない。 ご飯を配った時も、お菓子を配った時も、蚊よけの塗り薬を渡した時も彼らは強く笑っていた。 もしかしたら私だけ勝手に有事と思って騒いで居ただけかもしれない。。。 私からしたら部屋の1階の全てが水に浸かるような事態だが、インドネシアの人にとってはもしかしたらこれは良くあることなのかもしれない。 (数日後に言われた笑い話。ここで生まれ育ったがこんな規模の洪水生まれて初めてだ。きっとお前がここに来たから起こったんだと) 本当に彼らは逞しい。日本人ならショックで動けなくなってもおかしくないだろう。
朝が来た。幸い水量は減ったが、まだ生活できるレベルではない。雨もまだ降っている。 でも、間違いなくもー助かることをなぜか勝手に確信した。もう一回雨が降ったらわからないのになぜか大丈夫だと感じた。 もー自分のスマホの電池は1桁になって、そろそろ連絡取れなくなるなと思って、SNSを回せるだけ回した。 電気が戻るまでバスケしとけばいいかと思いながら、子どもたちとバスケしていたらとうとう体育館に電気がついた。
次の停電はいつになるか分からない。 ここぞとばかりにみなスマホの充電を始めた。 私は部屋から持ってるだけの電源プラグのハブを持ってきて、みなの充電を助けた。こういう時のPDである。 幸いここは体育館。電力は相当強い。電気をたくさん使ってもそんな簡単にはパンクしない。 急いでお湯を沸かせるだけ沸かして、子どもたちにカップラーメンを朝から食べさせた。 お湯があればインスタントコーヒーも飲める。 買ってきたお菓子も全部机の上に置いていたら知らないうちに全てはけていた。 電気があると言葉がわからなくても皆が安堵しているのがすぐわかる。 もーこれで大丈夫。
みな少しずつ自宅へ帰る支度を始めていた。 まだ水はそこまで引いていないがもちろんみな自宅が心配なのだろう。 そこからが大変なのは間違いないのだから。 遅いニワトリの鳴き声が聞こえた。ニワトリばかりも緊急時は鳴くのが遅れるのだと知った。 そんな中ほぼ毎日顔を合わす体育館の主②が体育館まで、 この水で侵された道路をバイクで走って駆けつけてくれた。 「(私たちのCPが)テイクアウトを朝イチですでにお店に頼んでくれたから取りに行くぞ」と言われ、 私の助手やその仲間と一緒にブンクス(大きいバナナの葉っぱで包んだお弁当)を店まで取りに行った。 さすが我がCP、何も言わずとも先回りが本当に素晴らしい。
幸い主要道路は水が引いていたのでお店までなんとか辿り着くことができた。 すでにほとんどがすでに作り始めてくれていて、そこまでの待ち時間もなく完成した。 そのブンクスの数100食。急いで体育館まで持って帰って近隣の人全てに配った。 100食は多すぎないか?と思っていたら、 体育館に行くまでの道の人たち(主に体育館に避難してきた人たち)と、一本隣の道の人たち(体育館には来なかったのでどこかでなんとか一夜を過ごした人たち)に 全て配ったらあっという間に100食がなくなった。CPの読みがすごいのと、道2つに100人も住んで居たのかとただただ私は驚くばかりだった。
なぜか私がお弁当をみなに配りに行く人になったのだけど、あまり寝てなくて心に余裕もなくただただ渡すことだけで精一杯だったが、 みなありがたく受け取ってくれた。 体育館に帰るとみな美味しそうにそのお弁当を食べていた。昨日ろくに食べていなかったので尚更だろう。 (インドネシアでは、1食抜いただけで怒られるぐらい、みな3食食べることを大切にしている文化です) 体育館の主①はいつも私にコーヒーを淹れてくれる。
今日も変わらず「あつき、コーヒー入ったぞ」と淹れてくれた。 彼がフル稼働して二次災害を防げたことを私が誰よりも知っている。 間違いなく彼が今回のMVPだろう。 みんなと笑いながら飲む朝のコーヒーは、 信州の夜の山の上で飲むコーヒーぐらい美味しかった。 みんなが帰っていった。 みなご飯を食べると、荷物をまとめて帰り始めた。 まだ床はどこの家も水浸しである。ここから水を家の外に出して、床を掃除する作業が待っている。 (なるほど床を木ではなく、大理石?にしているのはもしかしたら災害に備えてのことだったのか?と勝手に思ってしまった) もー泥水にやられてダメになった寝具も捨てるしかない。 もし、バイクや車がやられていたら修理業者に出すしかない。
今からが復興の始まりで、休んでなどいられない。 みんなが帰っていた後、体育館主①はいつものように体育館の掃除を始めた。 彼が毎朝掃除している姿を私は知っているが、災害が起きても彼のルーティンは変わらない。 今日も明日もまたいつものようにバスケをしにくる人たちのために。 助手は疲れ果てて寝ていた。自分の実家も被災して、かつ私の指示で現場を回すのも手伝ってくれて大変だっただろう。 今日ばかりは起こさないで好きなだけ寝かせてあげよう。 私は少し街中を歩いて街の被害状況を確認した。
私の地域はすっかり水は引いて、 みな復興作業を始めていた。場所によっては電気も落ちてなくきっとモスクも災害避難拠点になっていたように思う。 その日の夜に体育館でやっと張り詰めていた糸を切ってボーッとしていたら、 体育館の主①が「やっと終わったな。一杯やるか?」と言ってギネスを出してきた。 冷えていないそのぬるいギネスがなぜかおいしく感じたのはきっとお互いがお互いできることをやり切って飲んだ一杯だったからだろう。
11/29
本日は晴天。
全ての家が洗濯物を自分の庭に干している。 やっと日常を取り戻したのだ。 まだ元に戻せたとは言えないかもしれない。 まだ必死に戦っている地域もある。 それでもまたいつもの日常が始まるのである。 体育館にも週末に来るいつものアカデミーの子どもたちがやってきてバスケットボールを始めた。
「この日常を取り戻すために私たちは頑張ったんだな」とそう思わずにはいられない。
体育館の自宅へ道を歩く中で「あつき、ありがとうな」とみなが私に挨拶してくれる。 災害など本来なかったほうがいいに決まっているが、災害があったからこそ生まれたソリダリティもあるのかもしれない。 日本から、世界中に散らばった同期から、体育館には来れなかったインドネシアのバスケ仲間からたくさんの連絡が来た。 やっと「新生活が始まる」と伝えられそうです。
今回ここに記録を記したかったのにはいくつか理由がある。
1つは防災への意識を人へ届けるためである。
他人は被災しないと防災意識は高まらない。私もそう。 雨降って、停電していつものことだと思っていたが、被災して初めて知った自分が全く準備していなかったこと。 もっとスマホ充電しておけば、 モバイルバッテリー買っておけば、 食料を備蓄しておけば、 もっと体が温まるものを用意しておけば、 懐中電灯買っておけば、 ドラえもんのように、誰かが困ったときに差し出せる「何か」を全て持っていることができたら、そう思わずにはいれらない。
なのでこれを呼んだ人への「お願い」である。 自分の分の「最低限」ではなくて、「誰かの分の最低限」まで用意してほしい。
11/29
どこに行ってもガソリンスタンドが軽く3-4時間まちで街が渋滞している。 みな焦ってガソリンを満タンにしに行ってるのだ。 いつもガスが減る前に補充しているひとはきっとそんな列に並んだりはしないだろう。 災害は起こってから対応する前に、どれだけ有事に備えて準備できたか。 バスケも一緒。どれだけ試合の前に練習で準備できたかどうか。 普段使わないからと言って無駄になるぐらいがちょうどいい。 「無駄を買って安心だけ使う」ぐらいでいいのである。
被災しないと自分ごとにはならないが、 自分ごとになる前に準備できたひとは、 間違いなくきっと多くの人を助けることができるだろう。 CPがインスタント麺を1000食ぐらい新たに体育館に発注して備蓄した。 さすが我がCPである。私が提案するまでもなく彼の仕事は本当に早い。 被災して初めて私たちは次の防災のステージに行けるのである。 日本人が災害にめっぽう強いのは防災の「階段」を登った数に比例しているのであろう。 そして災害にあった時こそ助け合うという教育を国全体でみんなで長い歴史の中で培ってきたからだろう。
2つ目に昔から私がずっと考えていたことがある。
「バスケットボールは誰かを幸せにすることができるのか?」という問いに対しての1つの答えである。
バスケットボールは誰かを幸せにすることはきっとできない。 バスケットボールに人生を捧げた人以外には、 こんなものは生きていく上で必要のない「遊び」でしかない。
それでも今回の災害に対して、 近隣の住民はバスケットボールの体育館に避難することができたのである。 子どもたちは怖くて暗い中だったとしてもバスケットボールで遊んで楽しく過ごせた。 バスケットボールをするために作られたファシリティが彼らの避難生活を大きく支えた。
(段差のある観客席、浸水を防ぐための段差のあるコート、トイレ、カフェ、キッチン、シャワー、雨を凌げる屋根、大型の水道と大容量の電源etc)
バスケットボールがなければこの地域の人たちは、膝上の泥水が浸かる中、命懸けで標高の高い場所まで避難しにいくことになっていただろう。
日本は災害があれば「学校の体育館」へ避難するのが常であるが、インドネシアではそんな選択肢にはならない。 インフラや災害マニュアル、避難経路のプロトコル、そもそも体育館の数は限られているからである。 「体育館が災害の時の避難拠点になる」とバスケットボール研究者として頭の中ではぼんやりと思い描いていたが、 実際に自分が被災して初めて体育館の凄さを知った。 実際には数十人しか来なかったが、コートを全て使えば軽く1000人ぐらいなら問題なくここで雨風を凌げただろう。 バスケットボールそれ自体に意味はなかったとしても、 バスケットボールをどう使うかで誰かを助けることができた。 被災したことで非祭(非日常の祭りとしてバスケットボールの全てを使用)できたのである。 子どもがバスケットボールをしている中、おばあちゃんもなぜかウズウズしたのかシュートをずっと入るまで撃っていた。
「籠にボールを入れる」という行為は暇つぶしにはもってこいの遊戯なのかもしれない。
これからは近隣のみんなは体育館のことを
「被災したら駆け込むところ」
「シュートを撃って暇潰す場所」
だと認知してまたきっといつかの時に遊びに来てくれるだろう。
そして私がバスケットボールの人だと今後私のことを認知してくれるだろう。 災害がバスケットボールの空間を通してコミュニティディべロップメントを作り出せた。 これは別にバスケットボールである必要はない。 ここがたまたまバスケットボールを行う体育館だけだった話である。
また今度の配属先の会議で提言できたらと思う。 「災害時の体育館のあるべき姿」を。
バスケットボールなんか上手くならなくても、 バスケットボール自体にそれ自体の意味はなくても、 バスケットボールを行う空間が誰かの命を救ったことは揺るぎない事実である。 地域の人たちはそんなこと微塵も考えていないかもしれないが、 私にとってこれは 「バスケットボールは誰かを幸せにできるのか?」という問いに対して答えられる今持っている唯一の解である。
来週からは今回の災害でキャンセルになった分のコーチングクリニックで忙しくなりそうです。 しかしそんな忙しさはなんの苦にもならない。 取り戻したかった日常が思ったよりも早く帰ってきたのだから。 バスケ仲間にまた会えるのがもっと楽しみになった今日この頃です。 まだ災害が続いている人たちを祈念しながら、 新しい日常を少しずつ取り戻していきたいと思います。
途上国ではまずは命、その次は身体、そして心とパスポート。 忘れそうになった時こそ思い出してほしいと思います。
ではでは。
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