Mongol Monolog ①

昔あるところにモンゴルにバスケットボールを教えにいった青年がいました。

2011年の6月です。ちょうど3.11があって、日本が大変な頃でした。

彼は3.11の影響を受けて語学研修を大阪で受けることになりました。

研修所にはwifiはなし、体育館はなし、大浴場はなし、談話室もなし、

ずっと「本当だったら・・・」とぼやいていました。

彼が憧れていた語学研修とは全く別物でした。


彼は憧れの研修生活を取り戻すために、

wifiの原因を調べたり、当時LINEもない時代にメーリスをかき集めたり、

何とかソリダリティを作りたくて奔走していました。


おかげで語学をそっちのけたので、たくさんの人にご指導をいただきました。

結果としてモンゴル語の先生と仲良くなって今でもモンゴルに行く時はお茶する仲です。


全くシャングリラはなく、研修が終わりモンゴルへと出発しました。

モンゴルへ出発するや、高熱発により39℃で意識が朦朧として、

現地の語学研修を1週間ぐらいでいきなり休むことになり、

ただでさへ仲間より遅れていたモンゴル語がさらに遅れてしまいました。


そんな中、ある朝ガラケー(当時はスマホもLINEもありません)がチカチカしてたので、

何のこっちゃと思って、熱が出て意識が朦朧としてふと見てみると、

日本にいる父の訃報でした。


ピンピンしていたのに、えらいこっちゃと即日日本に帰国しました。

その後は日本で色々その雑務に追われて1ヶ月日本での滞在を余儀なくされました。

しかしながら、不思議とモンゴルに戻らないという選択肢はなく、モンゴルに戻ることを決めました。


何とかモンゴルに戻った時には、彼のモンゴル語はほとんど0に戻っていました。

モンゴルに戻ったのはいいものの、彼は思ったよりメンタルにダメージを受けていて、

なかなかモンゴルの生活に戻るのに苦労したのが今でも鮮明に記憶に残っています。

同期にはとても迷惑をかけたし、本当にお世話になりました。



とにもかくにも遅れながら活動が始まりましたが、まず最初に言葉の壁がありました。

当たり前です。彼は研修中ろくに勉強もせず、どうでもいいことばかりやって、

自分のやるべきことを疎かにしていたので自業自得です。

そもそも2ヶ月で言語をマスターできると勘違いしてるあたりが愚の骨頂です。

(学生時代に勉強をサボって英語すら当時は話すこともできませんでした)



また、当時新卒の彼は大したバスケットボールの知識もなく、

高校や大学の練習で培った貯金しかなく、そんな簡単にモンゴルのしかも初心者に近い大学生に教えられるはずがありません。


彼はそんな自分の不甲斐なさをいつも学生に八つ当たりして、

他人のせいにしていました。


「時間を守れないあいつらが悪い」

「実技中でもいつでもケータイで遊ぶあいつらが悪い」

「注意すれば殴りかかってくるあいつらが悪い。そもそも先生と思ってるのか」

「土足でいつでも授業に入ってくるあいつらが悪い」


そのほとんどが日本人の特有の感覚で、

彼は自分が正しいと疑うことなく、

その価値観をモンゴルの人たちにひたすら押し付けていました。


ある日、彼の活動のひとつで

「テキトーにバスに乗って、終点まで行って、その近くにあるバスケットゴールの写真を撮りに行こう」というがありました。

(当時、Google Mapなんかありません、バスの行き先も日本人にわかるわけがありません、行き先もどうやって帰れるかもわからない時代です)



彼はいつものようにわけのわからん場所で、彼はゴールの写真を撮ってご満悦でした。

するとなぜか道端で知らない人に声をかけられました。


「先生!」


ん?


「先生、私です。先生の授業を受けてる私です。私のこと覚えてないんですか?」


思い出しました。A組の彼です。確か相撲部だったような気がします。

(ややこしいので主語をわかりすく変えます)


「なんでわざわざこんなところまで来たんですか?」


わけを説明したら、彼は笑っていました。


「そうなんですね。でも、この辺はあまり安全でないので車で先生の家の近くまで送りますよ先生」


彼はわざわざ私のことを家の近く(私の家はDowntownのど真ん中にあります。山手線だったら霞ヶ関ですたぶん)


彼と帰りの車の中でいろんな話をしました。


モンゴルは渋滞がひどく彼の家の近くから大学(私の家は大学のすぐ近くです)まで大変な時間がかかりました。


私は彼がこんな遠くから通学してたのを知りませんでした。

冬はモンゴルは-40℃にもなります。


路面が凍って転倒は当たり前、交通事故が起きれば更なる渋滞を引き起こします。


私はその時に何とも言えない惨めな気持ちになりました。

もしかしたら私は彼が遅刻した時に、彼を授業から締め出していたかもしれなかったからです。


そんな途上国の事情も知らずに、日本人の彼は傲慢にも、

日本のスタンダードをまるでコロナイズのように強制していました。



モンゴルの彼はそんなこと気にすることもなく

「先生着きましたよ。気をつけて帰ってくださいね。また授業で会いましょう」

といってまた自分の家へと車で帰って行きました。



彼はその時に悔いました。

「私は何もわかっていなかった。何もわかろうとせずに自分の意思を押し通してしまっていた」


それから彼は知りました。

「モンゴルには時間通りに行かない理由」がそこらじゅうに転がっていると。


しかし、彼はなかなかの頑固者なので、その後もdisciplineを曲げることは2年間しませんでした。他にも彼が学生と争ったことは数知れず。。。その話はまたどこかで。


ただそれでも少なからず彼の中でのマインドセットが変わりました。

まずは他者を理解しなければならない。


結論は変わらなくてもプロセスは変えることができると。


彼は今でも車で送ってくれた教え子に感謝しています。

授業で挨拶や一方通行の指導しかなかった彼と車の中で

話せた貴重な時間でした。


常々彼は思っています。


無知は罪であり、そもそも無知でも、それを1回でも知ろうとしたのか?

無知の知をちゃんと自覚しているのか?


これは彼の2年間のモンゴル生活の中の比較的終盤の話です。

もっと早くにこのマインドセットを築けていたら、

きっと彼の活動はもっと学生たちとたくさんコミュニケーションを取れた

大切な時間になっていたでしょう。


彼の傲慢さは、活動を質を低下させました。

彼は今でもこうしてそれを鮮明に思い出せるぐらいそのことを食いています。


どれだけ言語ができなかったとしても自分からコミュニケーションをとるアビリティは必要ですね。


彼のプライドが、彼の言語能力のなさが、彼のコミュ力の低さが、招いたケーススタディです。彼はいつも自分の不幸自慢をして厨二病を拗らせていました。

「自分ばっかり不幸だ」

「あんなことがなければ自分はもっとやれた」

「言語さえできればこんなことには絶対にならない」

「こんなところで新卒の大事な2年間を棒に振りたくない」

「そもそも日本のやり方が気に入らないのなら、なぜわざわざ日本人を受け入れたんだ」




さて、これを最後まで読んだ人は、きっと明日からの生活が少し変わると思います。

だって明日からやるべきことはこれできっとおのずと決まるはずなので。


どこの国にいようが、日本にいようが同じです。


大切なのは


「彼はその時にできうる最善を尽くしたのか?」ということです。


無知や無力は努力ではどうにでもならないのか?


「それでも今日より明日に自分ができることは何なのか?」


正解のない問いを2年間、もがきながら必死に思考し続けることが、

電車「レジリエンス号」に乗るチケットなんだと思います。



彼はきっとこの痛みを伴って成長したことでしょう。


彼と、彼の痛みを知ったみなさんのレジリエンスに期待します。


レジリエンスにご飯と睡眠は大事です。

あと孤独に負けない誰かとの繋がりも。


あ、ちなみに彼は今インドネシアにいるみたいです。

語学研修を「モチベーションが・・・」とか言って早速言い訳ばかりしてサボっているみたいです。誰か叱ってやってください。


なんの成長もしていない彼にがっかりです。


モンゴルのこと思い出してる暇あったら、インドネシアのために時間を使ってほしい限りです。



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